D+3:牛タンとブルーチーズの、あまりにも残酷なマリアージュ
せっかくの仕事がお休みの日。
今日こそは愛しのデンチャー(入れ歯、なんていう無粋な言葉は私の辞書からそっと破り捨てましたのよ)と1日中添い遂げようと誓ったはずなのに、朝の段階で早くも挫折。
だって、なんだかだるいのだもの。気分がすっかり萎えてしまっているのだ。
結局、お昼ご飯を食べる直前まで、誰にも見せられない「すっぴん歯」のまま、自堕落にゴロゴロと過ごしてしまいましたわ。
そんな私が、この日のランチに選んだのが「牛タンブルーチーズパスタ」。
……これがもう、臭い、硬いの二重苦という名の、地獄のフルコースでございました。
お安めの牛タンだったのが災いしたのか、とにかくゴムのように硬い。
これではいかんと、キッチンバサミで親の仇のように細かく刻んでパスタに投入してみたものの、硬いものは硬いのである。
観念して左のデンチャー側でぎゅっと噛み締めてみた瞬間、
「あ痛ァーーーっ!!」
激痛が走る。
これは、食べ物が隙間に挟まったから痛いのではない。
プラスチックの塊が、ただただ純粋なる暴力として私の歯茎を圧迫し、ただ痛いのだ。
……とはいえ。
人間というのは恐ろしいほど逞しい生き物で、ここにきて食欲だけはきれいに戻ってきておりますの。
相変わらず口内での存在感はエジプトのピラミッド並みに巨大だけれど、初日のあの「絶望の食欲不振」からは、どうにかこうにか脱出。私の胃袋、万歳。
D+4:しまっちゃうおじさんと、深海からのノクターン
19時45分。今宵も厳かにデンチャーをドッキング。
今夜の実験台は、みずみずしい「ミニトマト」5個。
これを口に放り込んだ瞬間、驚くべき怪奇現象が起きました。
噛み潰したトマトの皮が、まるで意思を持った生き物のように、デンチャーの内側へと吸い込まれ、どんどん「しまわれて」いくのです。

え、何これ。私はハムスターなの? それとも、あの恐怖の『しまっちゃうおじさん』が私の口内に住み着いたの?
どんどん皮が隠されていくカオスな状況に怯えつつも、私は週末の旅行(30年来の友人との決戦)を見据えたシミュレーションの真っ最中。
「ここで外して取り出したら、女がすたるわ……!」と意地を張り、何食わぬ顔でそのままトマトを貪り続けました。なんだかんだで、私も食べることに慣れてきたのかもしれません。
そもそも、私が「入れ歯」と呼ばずに「デンチャー」と呼んでいるのは、某動画サイトで入れ歯ドキュメンタリーを見漁って取り入れた、私なりの小さなお耽美な抵抗です。
「入れ歯」という響きには乙女心を萎えさせる響きがあるけれど、「デンチャー」ならなんだか中世の騎士の武具のようで格好がつくでしょう?
動画の中で、偉いお医者様が仰っていました。
「入れ歯は、義足や義手と同じです。少しずつリハビリのつもりで慣れていってくださいね。」
え?
最初に堅揚げポテトをバリバリとハイスピードで貪り食った私は、単なる無謀なチャレンジャー、いや、ただの暴徒だったというわけです。先生、ごめんなさい。
しかし、まだ食べ方のコツが掴めないせいか、咀嚼するたびにデンチャーの隙間から空気をどんどん一緒に飲み込んでしまっている感があります。
そして、胃の腑に溜まったその気流たちは、やがて逃げ場を失い、喉元から
「……ングッ」
と、密やかな音を立てて外界へと発射されるのです。
これは、慣れない異物と懸命に戦う私の身体が奏でる、切なくも美しい『淑女のあぶく』。あるいは、お腹の底から響く『深海からのノクターン(夜想曲)』。
そう、私は人魚。口元からこぼれ落ちるのは、儚い泡のメロディ。
(可愛い言い換え、大成功ですわ)
22時、ようやくデンチャーを脱。
恐る恐る手のひらで確認してみたところ、あれだけしまわれたはずのトマトの皮は綺麗さっぱり消え去っており、代わりに夕食の「マッシュポテト」が、ほんの少しだけ我が物顔で居座っていらっしゃいました。そこは君の家じゃないのよ。
D+5:アデクサ、お寿司、そして真価を問われる旅路へ
18時50分、装着。
試しに父親と会話をしてみたところ、
「……ん? なんだって?」
と、すぐさま聞き返されてしまいました。
やはり、私のあどけないフガフガ丸出しの滑舌は、他人の耳には聞き取りづらい模様。
これ、もし1日100件近く電話を取る本業の時に装着していたら、間違いなく1件目でお客様とコミュニケーションが決裂して大惨事になっていたことでしょう。恐ろしい。
そしてこの数日、自分がデンチャー生活になってみて、ある特殊能力が覚醒いたしました。
電話で話していると、「あ、この貴婦人、今入れ歯(デンチャー)を入れておられるな」ということが、一発で分かるようになってしまったのです。
滑舌が悪いというよりは、口の中に巨大な異物を抱えながら必死に言葉を紡ごうとする、あの独特の健気な空気感……。
同じ痛みを分かち合う同志として、そっと胸の中でエールを送る日々です。
ちなみに、我が家の文明の利器・Alexaに話しかける時は、どう頑張っても
「アデクサ!!」
という、マヌケ極まりない発音になってしまいます。アデクサ、お願いだから私の言葉を聞き取って頂戴。
さて、明日は待ちに待った旅行です。
30年来の付き合いになる友人と、浴びるほど喋りまくる予定なのですが、明日こそ私のデンチャーの真価が問われる決戦の金曜日。果たして、私の「アデクサ発音」は相手に通じるのでしょうか!?
一応、大人の嗜みとして「今ね、ちょっと歯の治療中で口の中に器具をつけてるのよ」とだけ、事前に伏線を張っておくつもりです。
そんな決戦前夜の晩餐は、お寿司。

・アナゴ:普通に噛める! 柔らかくて、甘くて、泣けるほど美味しい。
・タコ:薄切りのおかげで、見事に噛み切れました。「タコぶつは入れ歯の天敵」という恐ろしい噂を聞いて怯えていたのですが、うっすいミズダコ先輩なら私のデンチャーの敵ではありません。
・ボイルホタテ:何の問題もなし。普通に美味しくいただけます。
・イカ:その特有の粘り気によって、一瞬デンチャーが「持ってかれそう」になりましたが、気合でセーフ。これがもし、老舗の高級寿司屋の濃厚なイカだったら、私のデンチャーは一撃で強奪されていたかもしれません。危なかった。
・赤貝(またはミル貝):さすがに硬かった! なので、まずは自分の地歯がある右側で無慈悲に噛みちぎり、それを左のデンチャー側へ移して、口内全体で総力戦として噛む、という高等テクニックを編み出しました。
他のおネタは、すべて普通にクリア。
以前は、一貫をひと口で食べると口の中のキャパがオーバーして溺れかけていたのですが、今夜は多少のラグジュアリーな余裕を持って味わうことができましたわ。
さあ、明日は旅行。
しまっちゃうおじさんと妖精の吐息を連れて、いざ出陣です!
つづく